第100回高校選手権大会決勝戦 翌日

2022年1月10日成人の日14時05分キックオフ

青森山田4-0県立大津高校(2-0、2-0)

 

 この100回記念大会の決勝戦のキックオフ直前、プレイヤー、役員、観客の総員が起立して去る1月7日に亡くなった小嶺忠敬監督へ黙とうを捧げた。

 私は10?年ほど前小嶺先生から突然電話を頂いた。「松本先生、日本経済新聞武智幸徳って人知っている?」 急の唐突な質問に私は少々戸惑った。もちろん私は武智幸徳記者を良く存じていた。小嶺先生いわく。「武智さんは俺のサッカーをよくよく見抜いているよ」、との話から始まり、武智さんがどこかで小嶺先生のサッカーについての記事を書かれ、それを小嶺先生自身が読んでの私に対する質問であったのだ。その記事を書いた武智記者について先生はこの時まだ深くご存じではなかったようである。

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2022年元旦 新年のご挨拶に代えて

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 私の母校埼玉県立浦和高校の臨時コーチを2020年12月よりお引き受けし、2021年10月9日の第100回全国高校選手権埼玉県大会1回戦県立浦和高校埼玉平成高校0-3(0-2、0-1)、平均週2回の部員とのサッカー活動ではありましたがこのうえない充実した日々を送ることができました。まず監督を務める本田哲也先生はじめ顧問の先生方におかれましては私の一方的な要望等をお聞き届けいただきご協力を心から感謝し、御礼申し上げます。松本光弘。

『宇野ゴン』こと宇野勝氏へのお別れの言葉

左 宇野ゴン 右 星野隆之
~宇野ゴンこと宇野勝お別れ会 に寄せて~

 オイ、ゴンよ!お前いつも言ってただろう。“みちゃんが死んだら俺が葬儀委員長をやってやるからな!”って。それがお前が先に逝くなんてずるいぞ! やっと待ちに待った庭付きの家に住むようになって何ケ月だ。あの新築の、それも風呂に入りながら富士山が見たいといってわざわざ二階に風呂場を造りながら何回風呂に入りながら富士山を眺めたんだ?庭の植木の剪定はみちゃんに頼むといいながら一回も四季を通して庭を見ないで逝ってしまうなんて残念無念だ。植物の四季折々の変化はお前がこよなく好んだ、ゆったりとした連続の日々の小さい変化と積り積もった時の想像以上の大きな花などの変化が現実のものとして観察できる。お前がいつも心にかけ他人にも伝えていた小局と大局が自然界には現実のものとして存在することをお前は新築の小さな庭で確認したかったのだろう。息子の陽(アキラ)が立ち上げたNPO法人SCDもやっと本格的な活動に移行する大事な時だったはずだ。スポーツで社会に貢献するというお前の最大の目標が現実にこの世で展開し始めた時ではないか。夢多きお前が本当の自分の力を遺憾なく発揮する条件が整ったとき、なんでそんなに急いであの世に行かなければならなかったのか。それはあの世にはブーちゃん先生や小宮先生や多くの親しい方々がいらっしゃることはわかっている。しかしまだまだこの世でやるべきことが山ほどあったはずだ。俺ともいつも言っていた約束があっただろう。あの古いゴムボートでの馬入川でのハゼ釣り、茅ケ崎漁港から出ての相模湾での海釣り、全日本学連の記念誌発刊、JFAの指導者養成の古い資料の整理、SCDのさらなる地域貢献、“はやぶさイレブン”の神奈川県をはじめとする全国への挑戦などたくさんやることはあったはずだ。それを途中ですっぽかし先に逝くとは“ずるい!”の一言だ。まァ、しょうがない。何言ったって帰ってくることはないのだから。仕方がない、諦めることにする。願わくは、あの世でせいぜいブーちゃん先生たちと仲良く、ゆっくり、和やかにサッカー談議などしていてくれ。俺も人生のノルマと思っていた80歳になった。あとはいつ死んでも悔いはない。もうしばらくこの世にいることになるだろうが、この余生をおまえの分も思いっきり生きようと思う。俺たち二人のこれまでの人生の最大の貢献者はお前の伴侶、旧姓鈴木明子通称コッペだ。俺の伴侶の同じ名前の昭子もそれに極近い。お前ら二人の娘あかり、息子陽、それに孫のアオト、みんなそれぞれお前の最大のタレント性を引き継いでいる。いつも変わらない明るさを持ち合わせている。大丈夫、俺も金はないが無形のものでできる限りの協力はする。とにかく今日はみんながお前に逢いに来る。上田師匠夫妻は残念ながら体調不十分で来られないとのことである。きっと上田先輩同様お前のお別れ会に来たくとも来られない方々が全国各地にたくさんいらっしゃることと思う。その上にまたまた新型株のコロナウイルスが日本国内でも市中感染が大阪で確認されたそうだ。明日の全日本大学サッカー連盟の今年度最後の行事であるインカレ決勝戦が無事終わることを祈り、お前がこの世から居なくなった話題おおき2021年(令和3年)を心に留めたいと思っている。それでは“あばよ!”あの世でまた逢おう。

この後の文章はお前との別れを機に俺がわかる範囲でお前と俺が辿ったこの世での思い出と記録を勝手気ままに思いつくまま書き留めたいと思い、去る12月6日から書き始めたものを披露することとした。

本来であれば本日2021年12月24日には書きあがっていなければならなかったのに不精な俺のこと、願っていたが皆さんに公開できるのはほんの最初の部分の文章だけとなってしまった。あとは後日追加加筆とさせていただく。お別れ会場では多くの思い出の品々を会場に持ち込みご参会の皆様に宇野ゴンの生前の足跡を直接見ていただけるようにした。

あの世でも明るく元気でな! もう一度“あばよ!ゴン!みんなによろしくな!”合掌

ゴンが親しみを込めて呼んでくれた“みっちゃん”こと松本光弘より(20211224am8:00)

 

<ご注意>以下の文章に含まれる写真等資料は内容の裏付けとして掲載したものです。写真等資料の取り扱いは充分注意してください。転記等はご遠慮ください。

~日本の大学サッカー及び日本サッカー指導者養成小史~

 一昨日、2021年12月6日付け朝日新聞朝刊一面、「被爆76年朽ちぬ記憶」の見出しで原爆ドーム内部撮影の記事が掲載されていた。この被爆という2文字を見聞きすると必ず心に浮かぶのは私が埼玉県立浦和高校入学と同時に部活で始めたサッカーの監督故福原黎三先生(以下ブーちゃん先生)を思い出す。この先生との出逢いが現在の私たちの全てと言ってよい。これほど一人の人間が他の人間の生涯に影響を及ぼすことがあるのだろうか。私は高校時代の恩師故福原黎三ことブーちゃん先生を思い出すたびに不思議でならない。今回のこの新聞記事は格別である。

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