『宇野ゴン』こと宇野勝氏へのお別れの言葉

左 宇野ゴン 右 星野隆之
~宇野ゴンこと宇野勝お別れ会 に寄せて~

 オイ、ゴンよ!お前いつも言ってただろう。“みちゃんが死んだら俺が葬儀委員長をやってやるからな!”って。それがお前が先に逝くなんてずるいぞ! やっと待ちに待った庭付きの家に住むようになって何ケ月だ。あの新築の、それも風呂に入りながら富士山が見たいといってわざわざ二階に風呂場を造りながら何回風呂に入りながら富士山を眺めたんだ?庭の植木の剪定はみちゃんに頼むといいながら一回も四季を通して庭を見ないで逝ってしまうなんて残念無念だ。植物の四季折々の変化はお前がこよなく好んだ、ゆったりとした連続の日々の小さい変化と積り積もった時の想像以上の大きな花などの変化が現実のものとして観察できる。お前がいつも心にかけ他人にも伝えていた小局と大局が自然界には現実のものとして存在することをお前は新築の小さな庭で確認したかったのだろう。息子の陽(アキラ)が立ち上げたNPO法人SCDもやっと本格的な活動に移行する大事な時だったはずだ。スポーツで社会に貢献するというお前の最大の目標が現実にこの世で展開し始めた時ではないか。夢多きお前が本当の自分の力を遺憾なく発揮する条件が整ったとき、なんでそんなに急いであの世に行かなければならなかったのか。それはあの世にはブーちゃん先生や小宮先生や多くの親しい方々がいらっしゃることはわかっている。しかしまだまだこの世でやるべきことが山ほどあったはずだ。俺ともいつも言っていた約束があっただろう。あの古いゴムボートでの馬入川でのハゼ釣り、茅ケ崎漁港から出ての相模湾での海釣り、全日本学連の記念誌発刊、JFAの指導者養成の古い資料の整理、SCDのさらなる地域貢献、“はやぶさイレブン”の神奈川県をはじめとする全国への挑戦などたくさんやることはあったはずだ。それを途中ですっぽかし先に逝くとは“ずるい!”の一言だ。まァ、しょうがない。何言ったって帰ってくることはないのだから。仕方がない、諦めることにする。願わくは、あの世でせいぜいブーちゃん先生たちと仲良く、ゆっくり、和やかにサッカー談議などしていてくれ。俺も人生のノルマと思っていた80歳になった。あとはいつ死んでも悔いはない。もうしばらくこの世にいることになるだろうが、この余生をおまえの分も思いっきり生きようと思う。俺たち二人のこれまでの人生の最大の貢献者はお前の伴侶、旧姓鈴木明子通称コッペだ。俺の伴侶の同じ名前の昭子もそれに極近い。お前ら二人の娘あかり、息子陽、それに孫のアオト、みんなそれぞれお前の最大のタレント性を引き継いでいる。いつも変わらない明るさを持ち合わせている。大丈夫、俺も金はないが無形のものでできる限りの協力はする。とにかく今日はみんながお前に逢いに来る。上田師匠夫妻は残念ながら体調不十分で来られないとのことである。きっと上田先輩同様お前のお別れ会に来たくとも来られない方々が全国各地にたくさんいらっしゃることと思う。その上にまたまた新型株のコロナウイルスが日本国内でも市中感染が大阪で確認されたそうだ。明日の全日本大学サッカー連盟の今年度最後の行事であるインカレ決勝戦が無事終わることを祈り、お前がこの世から居なくなった話題おおき2021年(令和3年)を心に留めたいと思っている。それでは“あばよ!”あの世でまた逢おう。

この後の文章はお前との別れを機に俺がわかる範囲でお前と俺が辿ったこの世での思い出と記録を勝手気ままに思いつくまま書き留めたいと思い、去る12月6日から書き始めたものを披露することとした。

本来であれば本日2021年12月24日には書きあがっていなければならなかったのに不精な俺のこと、願っていたが皆さんに公開できるのはほんの最初の部分の文章だけとなってしまった。あとは後日追加加筆とさせていただく。お別れ会場では多くの思い出の品々を会場に持ち込みご参会の皆様に宇野ゴンの生前の足跡を直接見ていただけるようにした。

あの世でも明るく元気でな! もう一度“あばよ!ゴン!みんなによろしくな!”合掌

ゴンが親しみを込めて呼んでくれた“みっちゃん”こと松本光弘より(20211224am8:00)

 

<ご注意>以下の文章に含まれる写真等資料は内容の裏付けとして掲載したものです。写真等資料の取り扱いは充分注意してください。転記等はご遠慮ください。

~日本の大学サッカー及び日本サッカー指導者養成小史~

 一昨日、2021年12月6日付け朝日新聞朝刊一面、「被爆76年朽ちぬ記憶」の見出しで原爆ドーム内部撮影の記事が掲載されていた。この被爆という2文字を見聞きすると必ず心に浮かぶのは私が埼玉県立浦和高校入学と同時に部活で始めたサッカーの監督故福原黎三先生(以下ブーちゃん先生)を思い出す。この先生との出逢いが現在の私たちの全てと言ってよい。これほど一人の人間が他の人間の生涯に影響を及ぼすことがあるのだろうか。私は高校時代の恩師故福原黎三ことブーちゃん先生を思い出すたびに不思議でならない。今回のこの新聞記事は格別である。

 広島はブーちゃん先生のふるさとである。現在は山陽線八本松駅を最寄り駅とする飯田地区がブーちゃん先生の生家であった。先生は東京教育大学卒業時にサッカーの全日本代表選手であったことから卒業後すぐに広島に帰らず首都圏にとどまり代表選手を続けることにしたそうである。赴任先が埼玉県立浦和高等学校であった。当時県立浦和高校は全国に名だたるサッカーの歴史を築いてきていた。愛媛県から当時の県立浦和高校の木村校長に招かれて浦和に来た宮川博先生(東京高等師範学校昭和22卒)がサッカーの指導をしていた。当時3年生だった浅見俊雄先輩から私は当時のことをお聞きしている。その宮川監督が昭和30年(1955)高校選手権の全国大会を前に脳溢血で倒れられた。この時は監督不在で全国を制覇している。この時のエースは超高校級といわれ、のち慶応義塾大学に進んで全日本代表となった志賀廣氏がいた。下馬評通り県立浦和高校は高校選手権大会2連覇し3度目の優勝を果たしている。これが1955年大会のことであった。

 

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 私がサッカーという競技を最初に耳にしたのは私の長兄松本孔志が1949年、当時陸の孤島と言われていた埼玉県北足立郡安行村立安行中学校から初めて県立浦和高校に合格し進学した。この兄が通う県立浦和高校のサッカー部が正月全国大会の決勝戦に進みラジオの実況放送があった。相手は当時のことははっきりしないが今では大阪府三国ヶ丘高校との対戦でのちのJリーグ初代チェアマンとして活躍した川渕三郎JFA元会長の母校であった。

 このラジオ実況放送がきっかけで、もしも自分が県立浦和高校に進学できたらサッカー部に入ろうかとの淡い夢がそこで芽生えたような気がする。この優勝メンバーには後多くの恩義を受ける浅見俊雄、倉持守三郎、松本暁司、轡田隆史氏などそうそうたるメンバーががいた。特に朝日新聞論説委員を務めた轡田隆史氏は1年生で孔志兄の同級生であった。この2人と彼らに加え現在パリ在住の芸術家津久井利彰氏などは彼らの生涯の友としてお付き合いくださって様ある。また同じく朝日新聞社論説委員であった轡田隆史氏の父親轡田三男氏は私が浦和高校現役当時にブーちゃん先生と一緒に臨時コーチの立場でサッカーの何たるかを教えていただいた。孔志兄からは当時浦和高校のグラウンドでのサッカー部の練習(宮川博監督の指導)は非常に厳しいとの話を聞いた覚えがある。

 

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 宮川博監督が倒れられ新しい監督を探す中で当時東京大学に1952年全国優勝を果たした上に東京大学に現役で合格した伝説のプレイヤー浅見俊雄先輩が大学卒業時期で候補に挙がったそうである。しかし、浅見先輩は東京大学の大学院進学を志望していたとのことであった。そこで浅見先輩は全日本代表候補メンバーであったことから当時東京教育大学蹴球部主将で全日本代表メンバーであった福原黎三ことブーちゃん先生を県立浦和高校監督に推薦したとのことであった。ブーちゃん先生が県立浦和高校の監督として1956年赴任している。ブーちゃん先生は全日本代表メンバーとして活躍を目標に、故郷の広島に帰るらず首都圏に留まることを希望していたようである。私の大学時代の蹴球部(東京高師・東教大・筑波大はサッカー部でなく正式名称は蹴球部)監督でありブーちゃん先生の同級生、4年次にはブーちゃん先生が主将で副主将を務めた故小宮喜久先輩(栃木県立宇都宮高校出身1951年全国高校選手権大会優勝メンバー)がおっしゃっていたことは同級生みんなで首都圏に残り東京教育大学のサッカーの後輩の面倒を見るというのが暗黙の同級生の約束事であったようである。ちなみに、小宮喜久氏は専修大学に努めながら東京教育大学蹴球部のコーチ(1956-1963年)監督(1964-1966年)、同級生の鈴木勇作先輩(埼玉県立松山高校出身東京教育大学1953年関東大学リーグ戦優勝メンバー、インサイドフォワードで技巧派)は東京都立大泉中学校勤務から学習院高等科に転任し、木之元興三氏(後Jリーグ立ち上げの中心人物となる)が東京教育大学4年の主将の年、監督を務め全日本大学選手権を制している。

 ブーちゃん先生が浦和高校に赴任したのは1956年、私が県立浦和高校に入学する1年前のことであった。私は高校3年間ブーちゃん先生にサッカーの指導を受け、たくさんの大きな人生の財産を先生から頂いた。私ばかりではない私の1年後輩ののちJFA会長となった慶應義塾大学に進学し、三菱重工業に進んだ犬飼基昭氏も彼自身の著書の中でブーちゃん先生からの強烈な感化を回顧している(「今日、有効な戦術が明日、通じるとは限らない」宝島社新書2009年)。

 

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 私たちサッカー部同級生は毎年2~3回集まり飲み会をひらき旧交を温めるのであるがいつもブーちゃん先生の思い出話は絶えたことが無い。そのブーちゃん先生の推薦も在り同級生で最も遅くサッカーを始めた私が先生の母校である東京教育大学体育学部に進学したのは1960年4月であった。私が高校を卒業した一年半後ブーちゃん先生は家庭の事情で広島に帰らなければならなくなった。これが1961年の夏であった。当時浦和高校2年生でのちに東京教育大学体育学部に進学し、卒業後埼玉県の公立高校教員となり母校県立浦和高校の監督となった星野隆之氏は3年間ブーちゃん先生には教わっていないと残念がっていた。このブーちゃん先生の突然のふるさと帰りは私にとっても意外であった。

 ブーちゃん先生の転任先は広島県警察学校であった。この転任は後にゴンと私がヨーロッパで勉強していた1971年に文部省在外研究員として3か月間アメリカ、ヨーロッパを視察研修の旅の途中、当時の西ドイツ、ケルンでお会いした川村毅先生(当時広島大学教育学部教授、のち広島大学名誉教授、鹿屋体育大学名誉教授、広島経済大学名誉教授2011年没)の紹介であったことを川村先生が広島大学定年後広島経済大学に移られてから私が広島に行ったとき川村先生を大学にお尋ねし直接お聞きした内容である。1962年麻子夫人との結婚の媒酌人も川村毅先生が務めたとのことであった。そして1年半の警察学校での勤務の後ブーちゃん先生は広島大学附属高等学校の教員として赴任しサッカー部の監督となった。

 

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 この時のサッカー部3年生に宇野勝こと宇野ゴン(以後ゴンと記す)がいた。ブーちゃん先生が広島にかえって2年半後、広島大学附属高校は広島県大会を制し全国高校選手権大会本大会に出場し3位の成績をおさめている。私の不確かな記憶では準決勝戦浦和市立高校、現在はさいたま市浦和高校(1952年県立浦和高校全国高校選手権初優勝チームGK松本暁司先輩が監督。ブーちゃん先生が県立浦和高校監督時代の宿敵のライバル、先生が浦和高校監督時代私たちに書して提示した檄文、全員和して球となり、全身すべて靴となり、全力で蹴らん 打倒市立高校)に敗れたとのことであった。           

 もう少しブーちゃん先生について記述する。プロ野球広島東洋カープの球団社長となり赤ヘル旋風を巻き起こした重松良典氏(慶應義塾大学から東洋工業フジタ工業JFA,湘南ベルマーレ。2018年没)は広島一中時代の一つ上の先輩であった。重松氏がJFAの専務理事当時私はブーちゃん先生と重松氏が広島一中で一年違いの先輩後輩であることを知り直接ブーちゃん先生の当時のサッカーに関することをお聞きしたことがある。この時の重松氏の話では悪ガキがたむろしている中にブーちゃん先生がいて、サッカーに誘ったのは私である、との興味深い話をお聞きした。なぜにあの160cmそこそこの背丈でCFのポジションでプレイしていたのかをお聞きしたがはっきりした答えはお聞きできなかった。広島一中は戦後一時広島県立鯉城高校と呼ばれその後現在の広島県立国泰寺高校となっている。この県立鯉城高校と呼ばれたわずかな時(1948年)にこの学校は全国高校選手権で優勝している。この鯉城同窓会鯉城人物録を辿ったところ昭和24年卒の人物欄で次のような記述があった。

福原黎三(教育・スポーツ)

昭和24年第27回全国高校サッカー選手権大会で優勝した鯉城高校の中心選手。東京教育大学体育学部卒。大学時代にも関東大学リーグで28年ぶりに優勝、4年次には主将を務めた。埼玉県立浦和高校教諭として同校サッカー部を指導したが、その後帰郷し広島県警察学校講師を経て広島大学付属高等学校教諭、同校サッカー部監督、日本ユース代表監督(1966年)など務めた。 

1970年(昭和45年)2月7日没

 この最後の1970年(昭和45年)2月7日没の記述は2月27日没の記載間違いである。

鯉城高校卒業後ブーちゃん先生は2年間広島大学事務職としで働いていたそうである(麻子夫人談)。その間どのようにサッカー活動を行っていたか私ははっきりわからない。しかし1951年戦後初めてサッカーの外国チームとして来日し、広島で国際試合を行ったのがスウェーデンヘルシングボリューチームであった。賀川サッカーライブラリーによると広島での試合は1951年11月28日となっている。この記事の中に全関西チームのメンバーとして関西学院の俊足の木村現氏の名前を見つけることができた。このヘルシングボリューチームと対戦した相手のオール広島のメンバーにブーちゃん先生の名前が載っている。このことからこの2年のブランクの間もサッカー活動は継続していたようである。そして1952年先生は東京に出てくることになる。本人の話では中央大学に誘われていたとのことであったが東京教育大学を進学先に選んだ。きっと私たち同様、当時の国立大学は私立大学に比較して格段に授業料が安かった。経済的に問題を抱える人は国立大学に進むというのが一般的であった。この頃のブーちゃん先生の広島時代のサッカー活動の時期には後の日本サッカー界にとって見逃すことができない方々が大勢いらっしゃる。広島一中、鯉城高校、国泰寺高校の流れでは朝日新聞記者となった中条一雄氏(D・クラマー氏の本参照)、重松良典氏、福原黎三先生。広島高等師範附属中学校のち広島大学附属高校には長沼健、木村現、後に桑原楽之桑原隆幸、宇野勝、古田篤良、小城得達修道高校では下村幸男、森健・森孝慈兄弟、基町高校では渡辺正舟入高校では私の1年先輩の今西和男、倉岡誠親の両氏。その他に山陽高校等など。そのよう中で異色は県立葦陽高校の石井義信氏である。彼は前述の方々より幾分若い。しかし石井義信氏は高校から東洋工業に入社し名ゴールキーパーであった下村幸男氏を良く支えた。のちに前述の重松良典氏、下村幸男氏と共に東洋工業中心の広島を離れ、藤和不動産から藤田工業、ベルマーレ平塚湘南ベルマーレの道を切りひらいている。特に石井義信氏を取り上げたのは広島出身の同郷、宇野ゴンの自宅が厚木にあり石井氏の自宅が海老名と比較的近かったこともあり家族ぐるみの付き合いであったようである。県立葦陽高校は石井義信氏の後、久しぶりに輩出したサッカープレイヤーが宇野ゴンが東海大学サッカー部監督になった直後入学した今川正浩氏であった。今川正浩氏は現在東海大学サッカー部監督として後輩を指導している。彼は宇野ゴン東海大学サッカー部がまだ強化の初期の厳しい立ち上げの初期時代にパワーあふれるプレイスタイルでチームの原動力であった。ちなみに当時東海大学サッカー部が一泊二日で筑波大学合宿所に来ての筑波大学蹴球部との交流試合6(?)試合通しての総得点は筑波大学45点に対して東海大学9点であった。

 

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 もう一つ大切なことがある。それは広大附属高校の先輩である前述した関西学院出身の木村現氏のことである、木村氏は宇野家が厚木に居を構えたとき厚木市内で子どもたちにサッカーの指導を行っていた。知る人ぞ知る現役当時は突貫小僧であったとのことである。背は小柄でずんぐりむっくり、ブーちゃん先生に体型、気構え、立ち居振る舞い、考え方などなど共通点が多い方であった。この体型・気質等は長沼健氏(ゴンの広大附属高校先輩、元JFA会長、メキシコオリンピック銅メダル監督、元日本体育協会会長)にも共通したところを読み取るのは私だけだろうか。このころの広島出身のサッカープレイヤーには何か共通性を感じてならない。長沼健氏の経歴を参照していて一つ私にとって見逃せない記事があった。それは長沼健氏が「東京クラブ」でプレイしたとの記事である。この「東京クラブ」の項は松永碩先輩(東京高等師範学校蹴球部卒業から早稲田大学に再入学し後日立化成の社長、松永行東京高等師範ベルリンオリンピック日本代表)、松永信夫東京高等師範卒、日軽金))の「幻のプロサッカー秘話」蹴球本日誌に記されているとのことである。しばらくのブランクの後平成24年2月4日の日付で「東京高師、東京教育大学サッカー部OB懇親会開催案内」が松永碩先輩の代(高師 昭和24年卒1949年)から故福原黎三氏の代(東教大 昭和31年卒1956年)までの卒業生を対象に出された。前述の鈴木勇作先輩と松永碩先輩と共同企画であった。その懇親会が同年4月20日茗荷谷茗渓会館で開かれた。私も同席させていただいた。ここに出席された方々はブーちゃん先生と一緒にボールを蹴った方々がほとんどであった。その席上で生前の松永碩先輩が直接回顧して話された事柄は大変興味深いものであった。ここに参加された多くの方々からブーちゃん先生が東京教育大学蹴球部に魂を持ち込んだのだとの意味のお話を私はお伺いしている。松永碩先輩のその時のお話は興味深く歴史的に重要なものばかりであった。主な内容は正力松太郎氏(当時読売新聞社社主)のプロサッカー創設が東京クラブの中心人物であった松永碩氏へ直接相談が持ちかけられたこと、テレビジョンの日本国内への導入の話などを聞きその先見性に驚いた。正力氏の話は原子力発電まではこの時はでてこなかったようである。いずれにしろ大変な構想がこの時代に語られていたことがうかがわれた。松永碩先輩を囲んで集まった当時の写真が現在私の手元にある。

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 ここで厚木市で木村現氏が子供たちを集めてサッカーの指導をしていたことに話を戻す。このサッカーチームの名称は「はやぶさイレブン」、宇野ゴンの長男陽(アキラ)がお世話になっていたチーム名である。この木村現氏が教えるサッカークラブの運営に宇野一家は相当協力していたようである。木村現氏の強烈な個性と熱心な指導で子どもたちは多くのことを学んだようである。このサッカーとの出逢いが長男宇野陽少年をサッカーの虜にしたようである。彼は高等学校をブラジル二世のマルコス宗像先生が指導している千葉市にある渋谷幕張高校を選び進学した・インターハイの全国大会に千葉県代表で出場を果たしている。そのインターハイで大会優秀選手にも選ばれている。この陽君が今NPOを立ち上げてスポーツカルチャーディベロップメント略称SCDの代表となっている。宇野ゴンが生前は会長として名前を連ねていた。このサッカーを中心とした厚木市を拠点とするスポーツクラブSCDのJリーグを目指すサッカーチームの名称が陽君を育ててくれた木村現氏のサッカークラブの名称「はやぶさイレブン」を引き継ぎ活動している。この大先輩の古式ゆかしいチーム名「はやぶさイレブン」を率先して名乗る宇野家の回顧主義と指導してくださった故木村現先輩への恩義を最大限に前面に出した感謝の気持ちの表れは親子ともども相当なものである。宇野ゴンのいつも大切にして後輩の指導者に言い伝えていた言葉「温故知新」を自らの生き様として宇野家が実践している証でもある。頑張れ!がんばれ!ガンバレ!「はやぶさイレブン」。

ここではやぶさイレブンのPRスライドを皆様に見ていただくことにする。

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 このような経緯でブーちゃん先生と宇野ゴンとの運命の出逢いが広島大学附属高校で実現するのである。私のこれまでの人生の最も重要であり、最も親しい、そして最も敬愛した(財)日本サッカー協会指導者養成を20年近くともに担当した朋友、東海大学サッカー部元監督故宇野勝こと宇野ゴンがこうしてブーちゃん先生の母校東京教育大学に進学したのである。ゴンも県立浦和高校の私の仲間と同様福原黎三先生の人となりに魅せられてサッカーの道を進むこととなる。県立浦和高校のサッカー仲間といい、広島大学附属高校のサッカーの仲間といい、何故に福原ブーちゃん先生にこうも惹かれるのか、魅せられるのか。感化されるのか。不思議でならない。私は今年(2021年)の夏休みにスペインのバスク地方に留学している筑波大学卒業蹴球部出身の岡崎篤氏の講演をつくばで聞く機会がつくばであった。そのテーマはスペイン語のインチヤ(Hincha)であった。インチヤはインチヤ、日本語にその意味を説明する言葉が無い、あるいは見当たらないとのことであった。サッカー界で最も尊い存在。この講演を聞き、私は衝撃のようなものを感じた。これまで私が上手く説明ができない、何か途轍もなく大きな力、大きな存在、それを私は私なりにサッカーの精神性とかサッカーの魂とかサッカーの哲学とかおぼろげに、曖昧に大事に胸の中で温めてきたサッカーへの思い、それをこの「インチヤ(Hincha)」という一言で言い表せることに気が付き、この上ない感動と衝撃を覚えた。この言葉をブーちゃん先生に重ね、ゴンこと故宇野勝氏に重ねるとまさしくぴったり、最高の表現となる。これに類した私のこれまでに出会った書物には「サッカー狂の社会学(ブラジルの社会とスポーツ)」J.リーヴァー著、亀山佳明/西山けい子訳、世界思想社がある。この福原黎三氏ことブーちゃん先生については最近インターネットで検索できるのでこの辺にしておきたい。ブーちゃん先生と麻子夫人との結婚は1962年私たちが大学3年生の春合宿を岐阜市で行っているときのことであった。それから何年もしない1970年2月27日、貴之、佐紀子、光伸の3人の子供を残してあの世に旅立ってしまった。

 宇野ゴンが東京教育大学に入学したのは私が4年生の時であった。華奢な体型ではあったがテクニックは抜群であった。力強さには欠けるがクレバーなプレイが目立った。いまでいうトップ下のピジションが向いていた。相手の意表を突くプレイが時々発揮された。意外性を好む多彩なアイディアを持ったプレイヤーでもあった。

 私たちは一年間東京教育大学蹴球部でプレイし、その後私は卒業した。1964年の東京オリンピックの年の3月であった。このオリンピック開催時は私はすでに東京教育大学を卒業しながら教員にならずにサッカーの芝生のグラウンドを日本中につくる事を夢見ていた。D・クラマーが東京オリンピック終了後母国に帰国するにあたり日本のサッカー関係者に言い残していった事柄がJFA機関紙に記載されている。細かくは5つの事柄となっている。その中に芝生のサッカー場を造ることが書かれている。私たちは大学入学後芝生のサッカー場でサッカーをする機会が年に1回あった。横浜の外国人スポーツクラブYC&ACを訪問してのフレンドリーマッチの時であった。このYC&ACとの交流は格別なものであった。天然芝のピッチでのゲームはこの上なく快適であった。いつも東大御殿下グラウンドや都立小石川サッカー場の土のグラウンドとは全く異なる感触であった。その上アフターゲームのサンドイッチパーティーも格別であった。私の生家が造園業を営んでいたこともありサッカーと芝生のグラウンドを結び付けるのは私の使命であるように感じていた。そのため卒業後は埼玉県立浦和第一女子高校の非常勤講師をしながら長兄が卒業した千葉大学園芸学部の聴講生になり週に2日松戸の校舎に授業を受講しに行っていた。それに加え私たちの前後の学年も含め、東京教育大学蹴球部の春休みと夏休みの合宿には監督の手伝いと称して卒業後間もない学年は合宿に参加する習わしになっていた。私もその習わしに従い春合宿と夏合宿には参加していた。卒業2年目の春合宿は国民体育大会開催を控えた大分県の別府での合宿であった。この時の監督は私たち4年の時と同じ小宮喜久先輩であった。ところが小宮監督が急に大分合宿に参加できない事情となった。私は別府合宿の手伝いで参加のはずで東京駅に行くと小宮監督からOBの代表として行くことを依頼され、合宿参加となった。

 小宮先輩はそれからすぐに順天堂大学専修大学から転勤となり東京教育大学蹴球部は監督不在となった。そうこうしているうちに比較的に時間が自由になる私に後輩を面倒見ろとの仰せを竹内虎士、大石三四郎東京教育大学体育学部の先生であり先輩でもあるお二人から云いわたせられた。何もわからず夢中で後輩を何とかしなければならないとの一念で安行造園株式会社の家業の手伝いと東京教育大学体育学部の在った幡ヶ谷を往復する宙ぶらりんの生活が何か月か続いた。そんな時宇野勝ことゴンの家の家業がおかしくなった。ゴンの実家の家業は戦前から缶詰のカンの製造をしていたようである。戦時中は缶詰のカンは貴重なもので広島市郊外で相当手広くやっていたようである。それが終戦となり軍需産業として取り扱われ極端な縮小を余儀なくされたとのことであった。私もゴンが卒業後に広島市観音町にあったゴンの自宅に行ったときは工場の形跡は確認できなかった。その缶詰のカンの製造が上手くいかなくなりゴンは生家を助けるために広島に戻らなくてはならなくなった。これが3年生も終わろうとするときであった。

 東京教育大学蹴球部の面倒を見るという条件で私は10月から東京教育大学体育学部の教務補佐となり蹴球部の監督として活動をすることとなった。この時はまだ安行と幡ヶ谷の行き来であった。いま当時の日誌を見てみるとゴンが4年生になる春の日誌にゴンについての記述がある。ゴンはたぶん両親を説得し東京に戻ってサッカーを続けたかったのだと思われる。どうするか。私が東京教育大学に入学した1年生の時は兄弟も多く(7人兄弟の真ん中4男)安行の自宅から大塚の大学本校に2時間以上かけ通った。鳩ケ谷からバスで赤羽に出て、電車で池袋、そこから往復15円のバスで大塚校舎に行った。練習はまた池袋に戻り新宿から京王線の幡ヶ谷まで行き、思い出多い西原湯で着替えてグラウンドで練習した。帰宅は幡ヶ谷、新宿、池袋、赤羽。バスで鳩ケ谷、徒歩15分で帰宅。朝6時過ぎに自宅を出て、帰宅は21時をまわることもあった。1年生の途中で地下鉄丸ノ内線が開通し、大塚の本校には池袋から茗荷谷、幡ヶ谷には丸の内経由新宿となった。いずれにしろサッカー部の練習後自主練習はほとんどできなかった。そのため2年生になるとき我が家の家計は苦しいのは解っていたがおふくろに頼み、幡ヶ谷の一つ明大前駅寄りの笹塚に3畳一間のアパートを借りて一人自炊生活を始めた。その部屋に3年生になるとき山形県立山形東高校出身の蹴球部の同級生の金村勲氏(元山形県立高校校長)がもぐりこんできた。次の年2人で幡ヶ谷のサッカーグラウンドの真上の世帯向けのアパート「みどり荘」を借り2人で自炊生活をした。卒業と同時に金村氏は山形県の教員となり帰省し、私は前述の県立浦和第一女子高校非常勤と千葉大学園芸学部聴講生と安行造園株式会社の手伝いをした。この東京での自炊生活の経験からもしゴンが東京に戻ってくるなら私は安行造園株式会の手伝いを一時停止し東京に出てゴンのサッカー活動の継続と卒業まで付き合いをしようかと考えていた。これに対して私の敬愛するおふくろは私たち兄弟の将来や行動にほとんど口を挟まなかった。身体が40kgそこそこで4000gの私を出産した時は母体は相当ダメッジを受けたようである。ちなみにおふくろは入院し、私はほとんどヤギの乳で育ったのだそうである。その上7人兄弟妹はほとんど学年が1年おきなのに対して私とすぐ下の妹は2年空いている。それだけ母体に私の出産が重荷であったことは明白である。その優しく真の強いおふくろが言った言葉が日誌の片隅に書かれてあった。以下日誌の一文・

 “このところ練習態度や行なう事に不満だらけで注意のしっぱなしで学生との間に溝が出来つつある様に思う。小生自身対処の方法に少々迷い気味だが現在ではそうした波乱も良いかもしれない。但し両方の考え方をたしかめ合う必要はある。宇野の件もあるので東京へ出てみんなと一緒に生活しようと思う。今年はそういう意味では自分をためしてみる積り。母から「人20才を越えれば一家を動かす事が出来る。宇野の事についても只soccerのためのみで自分達の良い様にしてはならない」と注意される。もっともなこと、親の考えを大切にしたい。”

 このような経緯でゴンと私の2人での6畳一間のアパート暮らしが始まった。私は知人の紹介で当時比較的新しかった亜細亜大学の助手として勤務し生活の糧を得た。勤務時間は朝は何時でも良いので午後2時に退勤させて頂くことを条件としての採用であった。午後3時からの幡ヶ谷グラウンドでのサッカーの練習に間に合うように退勤した。武蔵境を最寄り駅とする亜細亜大学と渋谷区西原の幡ヶ谷グラウンドから200mほどのアパートとの往復であった。ゴンはというと朝一番で授業に行き、午後の蹴球部の練習に参加し、その後については私はあまり干渉しないことにしていた。何故かというと私自身の収入もそう多くはなかったし、ゴンの部屋代はなかったがその他の生活費はすべて自弁で調達しなければならなかった。いろいろの職種のアルバイトをやったようである。実際に私は確かめたことはなかったが新宿駅西口の小田急デパート裏の繁華街で当時看板を前と後ろに両肩にひもでつるしてサンドイッチマンをしていたことがあったそうである。そんな時ゴンが広島弁で話をしているのを通りかかった広島のヤーサンが聞きつけて親しくなり夕ご飯をご馳走になったことがあったと本人は広島弁の有効性を誇らしげに語っていたことがあった。その頃その道の世界では広島の勢力が相当東京に流れ込んで来ていたようである。そんなこんなで彼のモットー、“耐える“はこの1年間の生活で骨身に染みて築きあがったものとも推察できる。苦労に苦労を重ね学業と生活費調達とサッカー活動をこなした日々であった。

 同級生には以下の6人がいた。小澤政宏キャプテン(元トヨタ勤務)、葛野泰男(故人元神奈川県教員)、素谷富雄(故人元石川県教員)、松田輝幸(元広島県教員第1回FIFAコーチングスクール検見川参加)、柳原英児(元広島大学教授JFAコーチングスクール講師)、山中邦夫(元筑波大学蹴球部監督、筑波大学名誉教授第2回FIFAコーチングスクールクワラルンプール参加)

 ゴンが体育学部を卒業する時ひと悶着あった。彼の就職先のことであった。キャプテンの小澤政宏は比較的早く、すんなりと教員にならずトヨタに就職が決まった。ゴン以外の同級生は柳原と山中は大学院に進学し、他の3人はそれぞれの出身県の教員採用試験を合格した。宇野ゴンは当時日本サッカーリーグで急上昇してきたヤンマージーゼルから勧誘されていた。ゴンの生前福原ブーちゃん先生とゴンとのヤンマー入社の是非についてのやり取りの手紙を見せてもらったことがある。迷いに迷ったようである。比較的安定したヤンマー入社を選ぶか辞退するかの選択であった。ブーちゃん先生はゴンの意思決定を尊重するからヤンマーに迷惑が掛からないように早く決めるようにとのアドバイスであった。この安定するヤンマー入社を躊躇させたものは何か。これはあくまで私個人の推察でしかない。本人は私にも何も話さなかった。本来であれば教員が最も安定した進路であり、東京教育大学卒業でサッカーを中心としたヤンマージーゼルに行くことは不安定な要素が入るという考えが私には通常と思われた。ヤンマー行よりさらに不安定な冒険的な考え、そう考えるとその後の宇野ゴンのこの時の行動が理解できる。この時すでにヨーロッパ行を密かに思い描いていたのではないか。ヤンマーに進み日本サッカーリーグで活躍するのは良いが福原ブーちゃん先生がいつも私たちに行っていた世界を観て来い、本場のサッカーを勉強して来いという大きな夢をかなえる可能性をヤンマーに就職することと天秤にかけていたのではないか。その証拠に卒業後比較的退職が容易に申し出られるであろうと思われる石川島播磨工業(IHI)の夜間の定時制教員を選んで就職している。IHIその頃右上がりの経済成長で景気はすこぶる良かったはずだ。そこで資金を蓄え憧れのヨーロッパ留学をする。そんな話は芝生のグラウンドの建設の夢を後回しにして福島大学に転勤した私を追いかけてきて1週間も滞在していた時少しはしたがまだまだ後のことであろうと思っていた。その理由はあれほど苦労した広島の実家の家業の傾きの経済的な困窮はそう簡単に解消されるとは私には思えなかった。いくら日本のトップクラスの大企業のIHIといえどもそう高級な給与はもらえないだろうと思っていた。

 それまで私たちは折にふれブーちゃん先生から世界を観て来いと言われていた。ブーちゃん先生の夢でもあったのだろう。もしゴンがヨーロッパに行くのであれば一緒に行こうとお互いに暗黙の了解はできていた。何か私の予定ではもう少し後になると思っていたヨーロッパ行がゴンの予定ではそう後のことではなくなってきているようであった。私が最も心配したのは金銭的裏付けであった。当時1ドルは360円、いくらかかるか想像もつかない。そして宇野家は家業の傾きがどのようになっているかも心配であった。しかし、ゴンの行動は早かった。あっという間にヨーロッパに飛んだ。一緒に行こうという約束はしていながら私には福島大学勤務という定職がある。もし行くなら体育科の先生方に授業の振り替え等お願いしなければならない。それとなく私の主任教授である青田峯雄先生に相談した。日頃のお付き合いが良かったせいかそう大きな問題とはならずに私の担当授業の前期分を後期開講とし前期の半年間のヨーロッパ研修が実現することとなった。その裏付けとなる渡航費用はここ数年で格段に日本の経済事情は好転し、私の実家の造園業も手広く仕事を拡大している最中であった。おふくろに資金貸与を申し出、この頃は自分の申し出を一方的に受け入れられてもらうほかなかった。それほど私はヨーロッパ行を切望していた。ゴンが先に西ドイツのケルン体育大学に行き、その後明子夫人が行き、私が追いかけることとなった。

 つい最近明子夫人にヨーロッパ留学の費用についてその出所を尋ねたところ、当時広島の実家の不動産の売却が成立しゴン夫妻の留学費用がそこから出された由をお伺いした。その毎月の仕送りされた費用は明子夫人が日本で働いて得ていた3倍の額であったとのことである。私はというとその時の日本国内から持ち出せる現金は2000ドルが上限であった。当時の1ドルは360円、総額72万円であった。その後不足分は電報為替でその都度実家から送金してもらった。それにパンアメリカンの南回りの羽田からフランクフルト間の航空運賃は当時ベースボールマガジン社に努めていた蹴球部OB森岡理右先輩(元東京タイムス記者、筑波大学名誉教授、蹴球部部長)の紹介で池田恒雄社長の手配で半年間オープンチケットを50万円で購入した。おふくろには出世払いと言いながらその後ほとんど返済した記憶がない。この1971年2月20日羽田空港発南回りのパンナム機には越路吹雪夫妻が乗っていて私が給油のため必ずおろされる各空港待合室で買い集めていた鈴が縁でエコノミークラスの私をファーストクラスに招いてくださりアルコール類やたくさんの振る舞いをしてくださったのが今では懐かしい初めての外国旅行の空の旅であった。この初のヨーロッパ研修はなんといっても人生最大の収穫と思い出が詰まっている。

 特に新婚ほやほやのゴンとコッペ夫妻にはなんとお礼というよりお詫びを言わなくてはならない。私に関するこの間の研修については私が筑波大学退職の際に体育科学学系紀要に掲載した「自分史」を参照願いたい。ゴンについてはスライドショーの中の写真とゴンがヨーロッパからベースボールマガジンに投稿した当時の連載記事を見ていただきたい。

 

 

20211227am07:30より加筆

以下の写真と文章は2021年12月24日故宇野勝氏偲ぶ会終了後共同通信を中心に全国に発信されたニュースである。これを見た全国の故人を知る方々はゴンが死亡したことに対して驚きと失望を強く感じたことだろう。それというのも終わりがあまりにもあっけなかった。2019年8月胃がんの手術が2回実施されたことは少々心残りである。1回目は胃がんの診断後胃の3分の2を摘出して術後の回復時の胃の機能を一部残すことを希望したようである。それが術後熱が下がらず、一週間後に再度手術し、残りの3分の1を再手術で摘出したそうである。3分の1残したのが良かったのか、それとも最初から胃の全てを摘出したのが良かったのかは私たちには判断はできない。いずれにしろ私が退院後会った限りでは大分痩せた・・・との印象が強かった。その後しばらく小康状態は続いていた。それから新型コロナが蔓延し始めた



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宇野勝さんをしのぶ会で展示された記念品=24日、東京都内

田嶋会長「背中を見ていた」 東海大元監督・宇野勝さんしのぶ会、教え子ら350人出席

2021/12/24 18:48

サッカーの東海大元監督で、4月に76歳で亡くなった宇野勝さんをしのぶ会が24日、東京都内で開かれ、教え子や関係者ら約350人が出席した。日本協会の田嶋幸三会長は「宇野先生の背中を見ていた。世界を見て、笑顔を忘れないという教えを忘れず、サッカー界の発展に尽くしたい」と話した。

広島県出身の宇野さんは東京教育大(現筑波大)を経てドイツのケルン体育大へ留学。帰国後は指導者養成や育成年代の強化にも尽力し、1995年ユニバーシアード福岡大会は監督として日本代表を初優勝に導いた。

東海大では80年代後半から黄金期を築き、当時の教え子で元日本代表の沢登正朗氏は「勉強熱心で情熱があり、理想の監督の一人。改めて偉大さが分かった」と故人を惜しんだ。

田嶋会長「背中を見ていた」 東海大元監督・宇野勝さんしのぶ会、教え子ら350人出席 - サンスポ



ここからは20211227pm6:00からの加筆である。

今日2021年12月27日月曜日朝から昨日の続きを加筆する予定で始まった早朝にデスクワークは上記の共同通信の記事の取り込みとゴンの最後の病状を記すのみとなってしまった。

何か極端に集中したお別れ会の準備から解放され一息入ってしまったのかなかなか以前のようにワープロに向かうことができないでいた。JFAミュージアム担当渋谷様に依頼してあったゴンがフットボール教師資格に合格して帰国したのちベースボールマガジンに連載した12回のヨーロッパ事情報告の記事があった。それをいち早くコピーして添付ファイルで彼女は私に送ってくれていた。そのデータをPC画面に保存して読み始めたのが昼を過ぎ太陽が西日となり孫のサキが我が家に来ると必ず使う二階の西に開いた窓の部屋である。

 私はこの季節寒さの中で太陽の日に当たりながら読書するのが大好きである。戸苅晴彦先輩(県立浦高校、東京教育大学卒、元東京大学教授、JFA科学委員会長)が教えてくださった“3余:雨、夜、冬”の一つである冬に朝日に当たれる幸せは格別である。今日は朝日ではなく西日ではあるが今冬一番の冷え込みの昼、窓のガラスを通しての太陽のぬくもりはどのように優秀な暖房器具もかなわない。そのようなぬくもりの中で読み始めたゴンの12回の連載記事は私を一気にあの頃のこの上ない有意義な初のヨーロッパ研修の旅に引き込んでくれた。読む条件も最高であった。

 というのも私がゴンとコッペの誘いの手紙に誘われて彼らがいたケルンに羽田を発ったのは同じような寒さの1971年2月20日のことであった。最終的にこの日に決めたのはゴンから2月21日火曜日に到着するように指示されたからである。その理由は彼の連載記事にも書かれているケルンのカーニバルの日であるからである。彼は私にその楽しさを一緒に味わってほしかったからである。結論としては残念ながら私はケルンのカーニバルに参加することはできなかった。その理由は簡単であった。パンナムの香港に向かうはずのジャンボ機ボーイング747羽田空港離陸が2時間近く遅れ、香港で乗り継ぐはずのボーイング707機に間に合わず香港で一泊することになってしまったからである。そのため21日フランクフルト空港にケルンから私を車で迎えに来ていたゴン夫妻は待ちぼうけをくらわされ、仕方なくケルンにもどったと後で聞かわれた。その代り私にはこの香港一泊からトルコのイスタンブールまでのボーイング707の機内は大変な思い出と楽しいパンナムの南周りの飛行機の旅となった。そのわけは、前述の越路吹雪(さん)との偶然のめぐり合いである。この事をもう少し詳細に記させてもらい。

 羽田空港で私を見送りに来ていた福島大学経済学部サッカー部の卒業生が数人いた。彼らは旧制福島高商の伝統を受け継ぐ福島大学経済学部を卒業の後、兼松興商、トーメン日商岩井などの東京の一流商社に勤めていた。当時の羽田空港待合室はチェックインして空港の中に入った後ガラス越しに会話ができる窓があった。その窓越しに彼らの一人が私に後方のミンクのコートを着ているのは越路吹雪であると告げてくれた。私はあまり大きな関心はその時持たなかった。それが香港の一泊後の搭乗口に行くとまた一緒の一日遅れのボーイング707機に乗ることとなった。南回りは各空港で乗客の乗り降りと給油のために必ず待合室に機内から降ろされた。時間つぶしもあり私は各待合室にある免税店でたくさんの土産物の中から鈴を一つずつ記念に買って行った。そうこうするうちに越路吹雪の付き人と思われる同伴者が私のところに来て同じように鈴を買い始めた。それも一つでなく二つずつ買うのである。

 私が100個以上ある鈴の中から音色の気に入った鈴を選んでいる時彼は2個の鈴を和音で組み合わせ買い始めた。そうこうしているうちに離陸した機内でエコノミークラスの片隅にいた私をファーストクラスの席に招いてくれ何かとアルコール類や食べ物を振る舞ってくれた。私はその頃越路吹雪の名前は有名なシャンソン歌手であることを知っていたがそう多くを知らなかった。エコノミークラスの機内食ではビールを注文すると現金で代金を払わなければならなかった。ファーストクラスではシャンペン、スコッチウイスキー、カクテル、もちろんビールも全てタダであった。

 インド、パキスタンを過ぎ1977年のパンナム世界一周西回り001便のタイムテーブルではイランのテヘランからドイツフランクフルトとなっている。しかし私たちの乗った1971年はヨルダンのベールートからトルコのイスタンブール空港で2つに分かれ一方はイタリアのローマ、フランスのパリを経由してイギリスのロンドンに行く航路と他方はドイツのフランクフルトを経由しロンドンで合流する航路があった。このイスタンブールでの分岐が私たちの別れでもあった。日本に帰ったら帝国劇場の楽屋に私たちを訪ねて来いとの約束と付き人と思われる方が知り合いがケルンに住んでいるので尋ねろと内藤法美という名刺に相手の名前と電話番号を記して私に渡してくれた。この名刺の本人が越路吹雪の旦那さんであることをフランクフルトに翌日またケルンから自動車で3時間以上かけて迎えに来てくれた新婚ほやほやの宇野明子ことコッペに教えられた。

 この一日遅れのフランクフルト空港での話をもう一つここで披露しておきたい。それはドイツにおけるフッスバル(フットボール)の凄さである。一日遅れのフランクフルト空港到着と同時にケルンの宇野宅に電話をした。ゴンとコッペはその電話を待ちに待っていてくれた。それからケルンを出発してフランクフルト空港まで来る時間に私は日本から送った別送品を空港で受け取ることにした。半年間の生活の必要な品(含むオーストリア国立スキー学校で研修のための新品の日立製のスキー:半分の長さになり使用時中央で繋ぐ画期的なスキー)と宇野ゴンが大好きな食べ物(海苔、おかき、乾麺など)が大きな段ボール箱に詰めてあった。その段ボールが輸送の途中端が破れてそうめんの一部が箱の外に飛び出していた。引き渡し場所で中身を点検することになった。私はその段ボールを開けたら中身を元に戻すことは不可能であることを良く知っていた。それほどいろいろなものを1年間ドイツ生活をして日本食にありついていないゴンに食べさせるためにしこたま詰め込んできている。これを開封するとなると一大事となる。困りに困っていると3人いた係員の一人が飛びだしている何本かのソーメンを見てこれは何かと尋ねてきた。私はたぶんヨーロッパのスパゲティーのようなものだと片言の英語で説明した。すると他の人が英語で私に何しにドイツに来たと尋ねてきた。私は説明するために機内に持ち込んでいたバックからバイスバイラーのサイン付きのフッスバル教師養成コースの受け入れ許可証を提示した。すると3人が驚いてこのサインがあればすべてOKだとなり、中身は全く開封せず渡された。そのあとはビールまで振る舞われゴンとコッペの到着を待った次第である。

 バイスバイラーの有名さと共にドイツにおけるフッスバルの偉大さを思い切り知らされた。二日連続のケルンとフランクフルト間約200KMを2往復することとなったゴンとコッペではあったが無事の再会と別送品で送った日本食類に感激して何の問題もなく(私にとっては!!かれらは新婚であったのだ!!)ケルン、ボンナーシュトラーセのアパートでの3人暮らしの6か月が始まった。

 再度、これからについてはゴンのベースボールマガジンに12回にわたり投稿したヨーロッパ事情報告を読んでいただき日本人初のフッスバル教師ライセンス取得の経緯やゴンの苦労話や興味深い話の数々の裏を読み取っていただきたい。ちなみにこの時のドイツ滞在に要した経済的負担は家計簿を克明に記録していたコッペの後の話では宇野家からの仕送りは一か月10万円であったそうである。私はおふくろに出世払いと称して出国時に持ち出し限度額2000ドル(当時1ドル360円*2000ドル=72万円、一か月後為替レートが240円に下落ショックだった)を出してもらい、その後節約しながらも困窮状態に陥ると援助の緊急国際電話を掛けた。

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 私のドイツでの生活はほとんどゴンと一緒であった。2月の朝8時開始のケルン体育大学の生活はまだ辺りは暗かった。霧の多い早朝が多かったように記憶している。長い年月の後筑波大学蹴球部創立100周年記念事業JFAJリーグ寄付講座 プロフェッショナルスポーツコーチ論」開講時に主任教授としてドイツからお招きしたゲロ・ビザンツ先生はこの時ケルン体育大学側のフッスバル教師養成コースの担当者であった。この偶然の再会ととなる先生のドイツからの招聘とJFA,公認S級ライセンス付与講座の筑波大学側の受け入れ責任者として重い役目を果たすことになった私は心から関係者に感謝するとともに人のめぐりあわせの不思議さに思いを馳せている。1996年のこの日本サッカー界の事業の実現には当時筑波大学蹴球部部長であった森岡理右先輩(故人筑波大学名誉教授、東京教育大学体育学部卒、元東京タイムズ記者、多くの点で蹴球部発展に貢献)と現JFA会長田嶋幸三氏(筑波大学体育研究科修了、寄付講座とS級ライセンス創設の日本における総責任者)が中心となり当時Jリーグ立ち上げの立役者であった木之元興三先輩(故人前述)の3人のアイディアと実行力が欠くことのできない設立の条件がそろい、その結晶としてこの一大事業は実現したのである。

 

 私の6ケ月のヨーロッパ研修は多忙であった。3月に入ると間もなくオーストリア国立スキー学校でのスキー研修が予定されていた。ケルンから夜行列車でスイス経由でオーストリア、サンアントン駅に行き、そこからバスでサンクリストフのクルケンハウザー教授が校長のオーストリア国立スキー学校に行った、この3週間ほどの国立スキー学校の研修も有意義であった。このスキー研修はスキーはもとより私のサッカーの実技指導に大きな影響を受けたことを記しておく。理論の裏付けと実践指導の重要さ、原理原則の理解の重要さはここでのスキーの体系的力学の理論に裏付けられた実技指導から学んだ。

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 この研修中に現在日本アルペンスキー競技界で活躍している村里敏彰氏(国際スキー連盟副会長、当時インスブルック大学聴講生、東京都立駒場高校卒業後渡欧、後に元JFA会長の岡野俊一郎氏から敏彰氏の渡欧の保証人であったことを直接お聞きした)に出逢っているのも偶然であり思い出深い。私が福島大学から筑波大学に配置転換(1953年)になった翌年の冬の菅平文部省高原体育研究所での筑波大学体育専門学群スキー実習のお手伝いをすることとなった。その実習でまたまた村里氏と再会することとなった。彼は筑波大学体育研究科修士課程の非常勤講師として長谷川順三教授の担当の同時に開講されていたスキー実習指導に参加していた。この再会は数年続いた。この時もスキーとサッカーの指導方法についていろいろ教えていただいた。

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 私ごととして次に主任講師のバイスバイラー教授の了解のもと私はイングランドに渡り、イングランドサッカー協会(The FA)のコーチングスクール受講をした。ケルンから事前に手紙で参加申し込みをThe FAにしておいた。ロンドンのハイドパークの向かい側のThe FAハウスに行きその年の指導者養成のハンドブックをもらい、参加の正式申し込みをし開催地ダラムに夜行列車で向かった。この辺りの詳細は私の「サッカーコーチの自分史」を参照願いたい。

 この時のダルムでのコースは初級2コースと上級1コースが同時に開講されていた。1971年7月18日から30日までの農業大学のグラウンドでの実技は牛たちの股の間にボールを拾いに行ったことを覚えている。ゴンのヨーロッパ事情にも出てきたがキャンプ中のダンスパーティーはどこからこんなに若い男女が集まるのかと不思議に思うくらいど田舎でのコーチングスクールであった。ここではこれまであまり公開してなかったFAコーチングスクールでの指導内容の一部をお届けする。また、ここで使用されていたビブスを日本に帰国し日本サッカー協会コーチングスクールを担当した時(1974年)、宇野ゴンと相談してコーチングスクールの資金的援助をしてくれていた当時のオニツカタイガーに頼み特別注文で作成販売したのが日本における最初のビブス導入であった。みんなさんは良く言います「なぜそこで商標登録しなかったのかと?!!」。私の答えは「こんなに有用なものはみんなで使うことが大事・・・」これはゴンの意見も相当入っている。加えるにコーチンググリッドとコーン(道路の工事現場ではすでに使用していた)の導入もその時が日本で初めてのものであった。

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 ここまでで私たちの初のヨーロッパは終わりとする。このほかに早春のベネルックス3国の旅、6月のバカンス時期のフランス、シャモニーを中心としたアルプス法衣mンへの長期の旅、密田さん、泰さん、宇野宅訪問の先の川村毅先生、浦和高校のサッカー部の同級生伊藤庸夫氏(京都大学法学部卒、当時三菱重工勤務)、写真家富越氏、偶然会った品村敏明氏(現在アセノスポーツクラブ(守谷市)代表)、成田十次郎先生の直施訪問、などなどいろいろあった。コッペの若かりし頃の写真もいっぱいある。それらは「初のヨーロッパ写真集」として別に作成しリンクしたい。

 ここからは私たちゴンと私との一緒のサッカーの研修についてのものとなる。ゴン夫妻はイングランドでの語学研修を経て、ブラジル、サンパウロを廻って世界一周の旅として日本に帰国する。このブラジル訪問はゴンにとっては特別なものがあった。それは従妹の立花満里子夫妻を訪問することであった。満里子夫人はゴンの母親のお姉さんの子供で満州で生まれたので満里子の名前がついたとのことである。戦後日本に引き上げてこられた。その後日本人がブラジルに移民するようになり父親が東本願寺の住職としてブラジルに派遣され、移住したのだそうだ。そこで後サンパウロ大学教授、同大学船舶研究所所長になる立花トシオ氏と結婚しサンパウロに住んでいた。このサッカーを追い求めて果たした世界一周の旅がゴンのサッカー観はもちろんのことすべての物事に対するグローバルな考えの大元になったのは確かだ。この従妹の満里子さまの存在も私たち二人にとってはこのうえない幸運であった。というより私たちにとって重要な区切りとなった。それはこの時から30年後、ブラジルで2014FIFAワールドカップが開催された。このW杯を最後にゴンと私の二人のサッカー研修を終了することとした。この終了の大きな要因が立花家がブラジル、サンパウロにあったことである。ゴン70才、私73才、もう二人とも研修する年は過ぎている。思い切って借金してでもW杯の総仕上げをしようとの魂胆で息子陽の先生であったマルコス宗像先生を中心にして一大企画が企てられた。それが二人で立花家にW杯期間中30日間ホームステーするという冗談抜きの大企画の実現が叶った。前半を日本代表選の応援ツアー、後半を世界最高峰のW杯準決勝戦と決勝戦の視察、その間に多くの日本人が移り住み、現在世界の資源の多くの部分を保有するブラジル社会を観察すること、これはゴンと満里子夫人の従妹同士の関係をはるかに超えていた。立花家にとってはその時の私たちブラジルW杯侍ジャパン応援大デレゲーション受け入れの大事業となった。

 そして多くの思い出と収穫は今でも大切の保管してある。ゴンよ、あの時は本当にありがとうよ!楽しかった!意義だったな!まさしく我れら二人のW杯の総決算であった。ここで一つゴンと私は経済的に恵まれていないにも関わらすスペインのW杯からブラジルのW杯まで視察と称して実際に現地に行くことに拘ったかといえば、確かに世界最高のサッカーイベントはこの目で見たいとは誰しも夢は持つ。しかし私たちは幸運にも日本サッカー協会の指導者養成という重要なポジションを担わらせていただいていた。その立場にいる限り常に世界のサッカーのその時々の移り変わりを確認することは絶対欠かしてはならないこととの一念で4年ごとにやってくるW杯に行くための資金をそれぞれに少しづつ積み立てた。いろいろ二人のお互いの立場は変わりながらもこのW杯視察の一念が実現できたことに感謝し、多くの方々、特に家族のみんなに多くのご迷惑とご苦労を掛けたことゴンの一家も同じであったと推察する。あらためて御礼を申し上げる次第である。ここで立花夫妻にも心から感謝申し上げる。この文章は後程メールで満里子夫人にお送りする。

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南アフリカW杯

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南アフリカW杯

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南アフリカW杯




ここからは少し急ごう。

日本にサッカーが入ってきたのは1873年東京築地にあった海軍兵学寮でイギリス海軍の副艦長ダグラス少佐とその部下によるゲームであったとされている。その後本格的活動が始まったのは東京高等師範学校であった。この歴史は今年で130年を刻む。この東京高等師範学校はその後東京文理科大学東京教育大学、そして現在の筑波大学とつながっている。同窓会組織は茗渓会といい、蹴球部の同窓会組織を茗友サッカークラブとよんでいる。福原ブーちゃん先生、宇野ゴン、私もこの流れの中に一時代学んだことになる。

この年表は現在筑波大学附属高等学校の教員をしている中塚義実氏がまとめたものである。

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 この年表を見ると戦後初めて東京教育大学が関東大学リーグ戦で優勝したのは1953年である。この時の監督が日本サッカー殿堂入りしている多和健雄先生(のち東京教育大学教授)でキャプテンは大渕正雄先輩であった。のち岐阜大学教授となり私の一つ上のキャプテン今西和男氏の代から数年岐阜合宿で大変お世話になっている、栃木県立宇都宮高校出身で先生が卒業した次の年1951年宇都宮高校は全国高校選手権で優勝している。この時の優勝メンバーに日本代表メンバーとなる小澤通宏(東洋工業マツダ)、吉沢茂弘それに(宇都宮大学教授)、1年下にブーちゃん先生の同級生副主将となる小宮喜久(東京教育大学監督、順天堂大学監督、JFA理事)が同じく東京教育大学に進学している。全国高校選手権大会の優勝メンバーとしては埼玉県立浦和高校から倉持守三郎、準優勝メンバーは山梨県立韮崎高校から祢津忠春、保坂俊男が入学していた。その他成田十次郎(高知県立追手前高校)、畠山正(北海道立函館中部高校)、深沢孟雄(山梨県日川高校)、宮原孝雄(山梨県日川高校)、鈴木勇作(埼玉県立松山高校)、松永弘道(静岡県立静岡高校)、それに名マネイジャーの森岡理右((三重県鳥羽高校)がいた。鯉城高校、宇都宮高校、浦和高校、と当時全国優勝したメンバーがそろい、そこに成田十次郎先生のように後日本を代表するドイツ体育史を研究するような学者が生まれたことはその後の後輩たちに多大な影響を与えている。ブーちゃん先生と成田先生は学生時代東京教育大学の幡ヶ谷寮で同室となり昼夜サッカーの練習に励んだそうである。その甲斐あって成田先生は遅くサッカーを始めながら日本代表候補及び全日本学生代表まで登りつめたとのことであった。

 ブーちゃん先生が合宿にドイツ語の専門書を持ち込んでいたと良く言っていた成田十次郎先輩はその後ドイツに留学することとなった。その頃日本は1964年の夏の東京オリンピックの開催がIOCで決定しながら1960年のローマオリンピックに韓国に敗れ出場できなかった。ホスト国としての責任からJFA幹部はその当時まだ外国人コーチはどのスポーツでもいなかったなかで外国人コーチ招聘を決断した。当時のJFA会長は野津謙氏(広島一中、東京大学、医学博士)らJFA幹部の決断であった。成田先生はご自身のドイツ留学と共にJFAの外人コーチ招聘の大役も仰せつかったそうである。そしてDFB(ドイツサッカー協会)の推薦により、当時DFBのユース担当、デューイスブルグスポーツシューレの主任コーチであったデッドマール・クラマー氏を紹介された。成田先生はこの間の詳しい経緯を自身の回想録『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版に記述している。

 また、ここからは最近私が原稿を送りブログ(「●松本名誉教授語録」のブログ記事一覧-⬛️21世紀は、アジアとの時代(JTIRO国際交流Webサイト)Editor: K.Yamada⬛️ (goo.ne.jp))に掲載している大阪の40年近くの知人山田晴之様に原稿としてお送りしたものを転記して皆様にD・クラマー氏が日本に来るに至った事実をお伝えする。

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“良いゲームとは・・”

 日本において世界でも類を見ないスポーツ界の成功例はプロ野球に続いて1993年設立されたプロフェッショナルサッカー、いわゆるJリーグである。このJリーグの成功の背景をたどると1964年にアジアで初めて開催されたオリンピック東京大会までさかのぼる。

 1956年は南半球で初めてオーストラリア、メルボルンでオリンピックが開催された。この時サッカー日本代表は宿敵韓国に一勝一敗の引き分けで抽選(くじ引き)の結果本大会に出場している。このころのサッカー競技は勝敗が決しない場合は抽選で次回に進むチームを決定していた。このメルボルンオリンピックアジア地区予選はホームアンドアウェー方式で行われるのがサッカー界では常識であったが、韓国側の日本代表チームの入国拒否から2試合とも日本の東京後楽園競輪場で行われた。このころ日本にはサッカーの国際試合を開催できる芝生の競技場は東京後楽園競輪場が唯一のものであった。1956年6月3日と6月10日に行われた。一回戦は日本が2-0で勝利、2戦目は韓国が0-2で勝利、延長戦でも決着が付かず抽選の結果日本がメルボルンオリンピック本大会に出場した。サッカー競技では現在は抽選方式で次回進出チームを決定する方法はとり止めPK方式を採用している。ラグビーでは現在もなお抽選方式で行なわれている。1960年メルボルンオリンピック本大会出場の日本代表チームは開催国オーストラリアとの初戦を戦い0-2で敗れている。この時の試合はトーナメント方式の勝ち上がりで、日本代表は一試合で敗退しすべてが終わった。

 1960年のオリンピック開催に立候補した東京はローマに敗れ、1964年の東京大会開催となった。この1964年の開催地東京が決定したのは1959年5月26日西ドイツ、ミュンヘンでのIOC総会であった。この年の12月13日と12月20日ローマオリンピック出場権

をかけてサッカーの日本代表チームはライバル韓国と東京後楽園競輪場で戦っている。この時私はすでに高校3年のサッカー少年であった。1959年12月20日2戦目を埼玉県安行村慈林(現在川口市安行慈林)から東京後楽園競輪場に一人で観戦に行った。雨が激しく降る最悪のコンディションの試合であった。12月13日の第一戦は韓国が2-0で勝利していた。2戦目の試合は両チーム一進一退であった。ぬかるみの中日本チームは1点先行しながらも次の1点が入らない。韓国の長身のセンターフォワード崔貞敏がしなやかなボールさばきをしていたことが記憶に残る。第一戦と第二戦の合計得点1-2で次期オリンピック東京大会を前に日本はローマオリンピックへの出場は断たれた。

 この敗戦を踏まえオリンピック東京大会を目前にし、ローマオリンピック不出場の日本サッカー界はそれまでどの競技でも考えなかった外国人コーチ招聘を決断する。当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)会長は野津謙博士であった。野津氏は東京大学医学部卒業の小児科医であった。この時東京教育大学大学院を終え。西ドイツケルン体育大学へ体育史を中心に勉強のため留学する成田十次郎氏を仲介にして日本蹴球協会は西ドイツサッカー協会とコーチ派遣について交渉した。

 成田氏は東京教育大学3年生の時関東大学サッカーリーグ戦優勝メンバーでもあった。この頃の西ドイツサッカー協会第二次世界大戦敗戦後初めて開催された1954年のFIFAワールドカップスイス大会で強豪ハンガリーを破って見事優勝した。この奇跡ともいえる西ドイツサッカーチームの優勝が第二次世界大戦で敗戦国となった西ドイツの戦後復興の起爆剤となった。その西ドイツ代表監督ゼップ・ヘルベルガーには3人の愛弟子がいた。その一人はその後1974年のFIFAワールドカップ西ドイツ大会で当時最強と言われたヨハン・クライフ率いるオランダ代表チームを見事決勝戦で破り優勝した西ドイツ代表監督ヘルムート・シェーン、二人目は西ドイツサッカー協会指導者養成担当でボルシア・メンヘンバッハ監督を長く務めたヘネス・バイスバイラー、三人目はユース担当の西ドイツサッカー協会西部地区主任コーチ、デュイスブルグシュポルツシューレにいたデッドマール・クラマーであった。西ドイツサッカー協会はその3人のうちの一人D・クラマー氏を日本に派遣してくれたのである。

 東京オリンピック開催の1964年3月は私の東京教育大学卒業の年でもあった。その後日本サッカー協会にも関わるようになった私は野津謙会長や成田十次郎先輩からD・クラマー氏の招聘の経緯を幾度となくお聞きする機会があった。中でも野津謙会長がことあるごとに語ってくれたのはD・クラマーとの最初の出会いの時のことであった。会長として最終面接のため西ドイツ、デュイスブルグスポルツシューレにD・クラマー氏を訪問した時の話である。会長が面接のために案内された部屋の壁に額が飾ってあった。

Es ist der Geist, der sieht.

Es ist der Geist, der hort. 

Das Auge an sich ist blind.

Das Ohr an sich ist taub.

 その内容は「眼それ自体は盲目であり,耳それ自体は聞こえない。物を見、物を聞くのは精神である」であった。野津会長は医師でありドイツ語はよく理解できたとのことである。このような言葉をいつも掲げて指導に当たる指導者であれば会わずとも日本のサッカーの行く末を託そうとその時即決したとのことであった。

 以上のような経緯で西ドイツサッカー協会から派遣された身長165cmのD・クラマー氏は精力的に指導に当たり多くの改革を日本サッカー界はもとより日本のスポーツ界にもたらせた。

以下は他所からの引用である。

クラマーコーチと大和魂 メキシコ五輪日本代表
 「私は、このように全員が持てる力を全て出し尽くしたのを見たことがない」。1968年10月24日、国際サッカー連盟FIFA)から派遣されメキシコ五輪を視察したデットマール・クラマー氏は、地元メキシコを破って銅メダルを獲得した日本の教え子たちに、胸を熱くした。ピッチでは歓喜に躍動した選手たちだったが、宿舎に戻ると全員がベッドに倒れこんで動けない。水さえ飲めないまま寝入った。戦い抜いた姿にクラマー氏は涙した。
 さかのぼること8年。東京五輪を4年後に控えた1960年10月29日、クラマー氏はドイツから来日し、日本代表コーチに就任する。当時の日本はインド、香港、フィリピンにも勝てずアジアでも下から数えた方が早いサッカー弱小国だった。リフティングも満足にできない選手たちに、クラマーコーチは基本を叩き込む。だが、それだけではなかった。
 「ドイツにはゲルマン魂がある。君たち日本人にも素晴らしい大和魂があるじゃないか。私に君たちの大和魂をみせてくれ」
 少しずつ成長した選手たちは、晴れの東京五輪で8強まで勝ち上がる。特に初戦で南米の強豪アルゼンチンを3-2の逆転で破った試合は、選手たちに自信を与えた。東京五輪後、クラマーコーチはドイツに帰ったが、選手たちは「クラマーのために戦う」と4年後のメキシコに目を向け、強化を続けた。メキシコ五輪代表18人のうち14人が東京五輪代表、つまり、ほとんどが「クラマーコーチの教え子」だった。
 日本は強くなっていた。しかしメキシコには五輪直前の強化試合で0-4と敗れている。アステカスタジアムで始まった3位決定戦は、序盤からメキシコペース。それでも、じっくり守ってカウンターという作戦を立てた日本は慌てず、前半17分と39分に杉山隆一釜本邦茂の黄金のホットラインから2点を奪う。残る時間、日本は全員で守り抜いた。GK横山謙三は、後半開始早々のPKさえ止めている。
 大会後、報告書を作成した代表コーチの岡野俊一郎氏(現・日本サッカー協会名誉会長)は参加16カ国の実力を評価し、「個人技」で日本を最低の75点とした。「まだまだ差をつけられている」。だが「精神力」は優勝したハンガリーと並ぶ100点。「宿舎に戻った選手たちは、口をきくことさえできなかった」と岡野コーチも振り返っている。
 クラマー氏は日本人の見せた大和魂に胸を熱くした。約束を守りぬいた選手たちの心に泣いたのである。7年後の1975年、ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘン監督として欧州チャンピオンズカップ(現・欧州チャンピオンズ・リーグ)を制覇したクラマー監督は、「今が人生最高の瞬間ではないですか」と記者に聞かれ、「いいえ」と答えた。「最高の瞬間は日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」
 FIFAメキシコ五輪からフェアプレー・トロフィーを設置し、最もフェアな敢闘精神を発揮したチームを称えるようになった。第1回受賞は日本代表。そして、クラマーコーチは「日本サッカーの父」と呼ばれるようになった。=敬称略(風)

 

以上は他所からの引用である。

この1964年の東京オリンピックを終え西ドイツに帰国するにあたってD・クラマーは日本サッカー界に以下のような提言を残している。

  • 全国レベルの強いチーム同士が戦うリーグ戦を創設すること。
  • 高いレベルの国際試合を行うこと。毎年一回は欧州遠征を行うこと。
  •    年代別の代表を選出しそこに専属の指導者を配属すること。
  •    指導者養成制度を確立すること。
  •    芝生のグラウンドを造り維持すること。

上記の「提言の全国レベルのリーグ戦」に対して日本のサッカー界は1965年日本のスポーツ界で最初の全国規模のリーグ形式の「日本サッカーリーグJSL)」を8チームで立ち上げた。この「日本サッカーリーグJSL)」を支えたのは古河電工株式会社、日立製作所三菱重工業株式会社東洋工業株式会社、八幡製鉄所など多くが当時の日本のトップ企業であったことも興味深い。この日本サッカーリーグはその後低迷することもあったが1993年の日本プロサッカーリーグJリーグ)設立へと移り発展解消され、現在では日本におけるアマチュアサッカーの最高峰のリーグである日本フットボールリーグJFL)の形で残っている。

 「提言の指導者養成制度を確立」は1967年D・クラマーは国際サッカー連盟公認インストラクター第一号に選出されている。この資格でメキシコオリンピックに参加していたため日本代表チームを直接指導することはできなかった。側面からのアドバイスで彼は日本代表チームの力となったのである。

 1969年国際サッカー連盟FIFA)はアジアのサッカーレベル向上を目的にFIFA主催のコーチングスクールを日本で開催した。アジアサッカー連盟AFC)、日本蹴球協会(JFA)の共催でもあった。1969年7月15日の岸記念体育館で開講式が行われた。参加者は42名のアジア12か国から選ばれたコーチたちであった。この第一回コーチングスクールは3か月の長期間であった。キャンプ地は千葉県検見川にあった東京大学検見川総合運動場の宿舎と施設が使われた。この3か月、びっしり詰まったスケジュールは参加者にとって充実していたとともに厳しいものであった。

 このFIFAコーチングスクールアジアはその後第2回を1971年マレーシア、クワラルンプール、第3回をイラン、テヘランで開催されている。いずれもD・クラマーが主任講師を務め、カリキュラムはほぼ同一であった。幸いにも私は1973年10月1日から12月31日の期間で行われた第3回のイラン、テヘランのコースに故相川亮一氏(元読売サッカークラブ監督)と2人で参加した。

 今回の主題の“The Good Game”“良い試合”はそのコーチングスクールの中でD・クラマーが私たちに講義した内容のテーマである。図1は検見川で行われた第一回コーチングスクールの公式報告書の写しである。その内容を岡野俊一郎氏は自著の本の中で図解している。その図解を私なりに表したのが図2である。この内容を詳細に検討していくとなかなか奥が深い。右側にあるPlaying art。スポーツの技術や戦術はアートなのである。絵画に代表されるアート、それは身体活動で表現される素晴らしいテクニックやコンビネーションで対応するタクチック、それらはアートなのである。プロスポーツをこよなく愛する人々はこのアーチに接する時心地良さや感動を味わうのではないだろうか。またこのアートの中にフェアープレーを持ってきていることも素晴らしい。視覚的すばらしさの追求が技術や戦術の過程であるならば見えない精神的部分のすばらしさがフェアープレーの精神ではないだろうか。フェアープレー無くしてスポーツは成立しない。最も素晴らしいのは勝利することよりその上位にフェアープレーの精神を置くスポーツマンであり、スポーツを教えるコーチでありたい。この心を教えてくれるのが“The Good Game”である。“The Combination of Success and Beauty”ここで初めてSuccess、勝利という言葉が出て来る。それは美しさと結合することで果たせるものである。サッカー界の偉大なプレイヤーであり指導者であり、バルセロナFCの今日を築いた張本人ヨハン・クライフが言った言葉「美しく勝つ」が思い出される。もう一つ、左側の闘志(Fighting power)、これなくしてゲームに勝利することはできない。精神力(Will-power)、体力(Physical fitness)これが闘志の源泉である。特に体力で劣っていて相手に勝利することはなかなか困難である。これは成長期の子供たちのスポーツ競技を観察すると明白である。年齢の違った子供が競う時年齢差は勝敗に大きく影響する。また同年齢の中でも発育発達の個人差が大きく、体格の大きな子供が勝敗には有利であることは確かである。この勝敗に大きく影響する要素の”闘志(Fighting Power)“の中に”Top form”という言葉が入っている。これ言葉に岡野氏は“運“という日本語を当てている。確かにサッカーのゲームでは決定的なシュートがクロスバーに当たって得点とはならなかった場合など”運やツキ”という言葉に表現される場面がしばしば出現する。これを私は運を含んだ調子という言葉で表現している。“今日は調子が良い“、”今日は少し身体が重い”など自分では気が付かない、あるいは気が付いてもどうしようもしようがない事柄。これを”Top form”の言葉で言い表している。運も調子も共通することは自分あるいは自分たちではどうしょうもできないこと、言い換えれば神のみが知ること。このような事柄あるいは部分が勝敗の決定に存在するのであるならば私たちはこの部分にどのように付き合うべきか。その存在を認めるのであれば私たちはどのような態度でゲームに臨むべきか。どのよう態度で勝敗を受け入れるべきか。そのようなことに考えを巡らせるとゲームにおける相手あるいは相手チームに対して自ずとリスペクトする心、勝敗に対する謙虚さ、相手を敬う精神、審判や運営関係者に対する感謝の気持ち、応援してくれる人はもちろん観戦するために足を運んでくれた人々への心配り。何かスポーツの奥の奥を覗いて行くような気持ちになるのは私だけであろうか。

今日は2021年8月24日、2020年開催の東京パラリンピックが1年遅れで開会式を迎える日である。数日前の新聞に載っていた国際パラリンピック委員会アンドリュー・パーソンズ会長の“開催「コロナ禍だからこそ」”、「この大会は歴史上、最も重要なパラリンピックになる」。この「歴史上、最も重要な・・」この特別の特別をどれ程度特別に感じているのだろうか・・施政者も施政者、一般人も一般人。コロナ禍対策はスポーツマインド、スポーツの心が大切。自主的に、自発的に、自ら率先して、周りと協力して、事(コロナ禍)に当たる。歴史上最も重要な状況に置かれている世界であり、日本である。障害を乗り越えるのがスポーツ、コロナ禍を乗り越えるのもスポーツの心であってほしい。願いを込めて、頭を垂れてコロナ禍の収束を祈り、自分の日常に心配りをしていきたい。

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 上記に2枚の写真はD・クラマー氏の初めての来日時(1960年⒒月)、東京教育大学体育学部幡ヶ谷グラウンドに成田十次郎先生が通訳で一緒に来られた時のデモンストレーション。撮影は当時4年生であった池田淳氏(1961年卒、埼玉県立浦和高校卒、北海道新聞記者)

 

 この我々が尊敬するD・クラマーに直接会ったのは私が東京教育大学体育学部に入学した年の11月であった。ゴンが直接サッカーの指導場面でお会いしたのは彼のドイツ行の直前のFIFAコーチングスクールが開催された千葉の東京大学検見川総合運動場でのことであった。この東大検見川運動場はJFAの歴史の重要な部分を担っている。当時日本にはサッカーができる十分な芝生のグラウンドがなかった。そのような中でこの東大検見川運動場ゴルフ場として整備され当時としてはサッカーのトレイニングには充分であった。ここでサッカー全日本代表は強化合宿を行い、1964年東京オリンピック8位入賞、次回1968年メキシコオリンピック銅メダルの当時としてはアジアの国が初めて成し遂げた偉業であった。この聖地ともいえる東大検見川運動場でこの後ゴンと私は1年間に1か月30日を超える合宿をし、JFA指導者養成の大役を担うことになる。私にとっては身に余る重責であったがゴンと一緒に行えることに勇気と意欲を燃やし懸命で挑んだ毎年の日本サッカー協会コーチングスクールであった。

(今日は2021年大晦日、宇野ゴンが亡くなった年静かに新しい年を迎えよう。そしてゴンが残していった資料の整理をしながら皆さんに逐次報告することをお約束する次第である。宇野ゴンこと宇野勝氏の稀有な足跡を思い起こしながら今年に別れを告げ、来る2022年は世界中の人々が直面している新型コロナウイルス、中でも感染力がさらに高まったと言われる???株の一日でも早い収束(終息)を願い、世界中の人々がサッカーを心行くまで楽しめる日が一日も早くやってくることを祈って一休みとする。2021年12月31日am9:45みっちゃんこと松本光弘)

 

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山中湖合宿 富士山をバックに

 宇野ゴンは今年4月25日胃がんのため76歳の人生を終えている。コロナ禍にあって入院先の東海大学付属病院に見舞いに行こうとしても非常事態宣言などにより面会どころの騒ぎではなかった。明子夫人ですら衣服の交換を看護師と手渡しで行うほかなかったとのことである。この宇野ゴンのお別れ会が今年度の全日本大学サッカー選手権決勝の前日12月24日東京白金台の八芳園で執り行われることに決まった。彼の大学サッカー界における功績は大変なものであった。現在世界のスポーツ界で成功の最右翼とされているJリーグの創設やその後の繁栄の大きな部分を担っている大学サッカーの屋台骨をゴンが構築したと言っても過言ではない。特に株式会社デンソーと組んで展開したデンソーカップ地域対抗戦は大学サッカーはもちろんのこと日本サッカー界になくてはならない育成強化の重要部分を現在担っている。

山中湖合宿 撫岳荘

 中でも当時天下の企業として名を成しはじめたデンソーを相手に他の企業がスポーツの支援を躊躇した1990年代にデンソーカップ日本大学サッカー地域対抗戦を会社の宣伝広告費扱いから総務部担当のメセナ扱いとした交渉力は驚きとともに今でも不思議に思われる。この会社が苦しい時デンソーが大学サッカーの支援を打ち切っていたら現在の大学サッカーの発展はなかったし、Jリーグの現在の繁栄もなかったと私は断言する。この時のデンソーの大学サッカー支援の継続がこれまで毎年開催されてきた日韓大学サッカー定期戦を実現させ、また宇野ゴン自らが監督として総指揮をとった福岡のユニバーシアード大会の優勝という偉業を成し遂げている。日本の大学サッカー界の悲願であったユニバーシアード初優勝を福岡大で成し遂げた。この初優勝をきっかけとして日本の大学サッカーは大きく国際舞台で羽ばたき、その後のユニバーシアード大会開催13回のうち7回世界を制覇し、永遠のライバルとされている隣国の韓国大学サッカーを凌駕してきている。

山中湖合宿 ヨット航行

 たかが大学サッカーとはいえそれまで韓国に後れを取っていた日本サッカー界が苦手意識を払拭するに十分な戦績である。この韓国苦手を意識をしないで済んでいる現在、それは1992年から始まったデンソーによる大学サッカー支援の継続が大きな力となっていることは大学サッカーに携わってきたすべての人々が認める所である。そのデンソーカップの立ち上げから途中の継続危機の克服を含め故宇野ゴンの功績は大学サッカーはもとより日本サッカーの発展の大きな力となっている。この功績の裏付けは現在Jリーガーとして登録されているプロサッカープレイヤーの50%が大学出身者で占められていることからも証明できる。それに加え彼の東海大学サッカー部監督としての功績も大きい。多くの日本を代表するプレイヤーを排出しリーグ制覇全国大会制覇も果たしている。また東海大学監督以前を辿るとこれまた日本サッカー界に大きな一石を投じている。

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 私が県立浦和高校でブーちゃん先生に感化されて先生の母校である東京教育大学に進学したのは1960年(昭和35年)であった。私が大学4年生になる年に広島大学附属高校から進学してきたのが宇野ゴンであった。これまた故福原ブーちゃん先生が5年の県立浦和高校勤務から故郷の広島に帰り初めて高校の指導者となった広大附属高校勤務で監督とサッカー部員として出会ったのが宇野ゴンであった。宇野ゴンが3年生の年広大附属高校は広島県代表となり全国高校サッカー選手権大会で3位に入賞している。この福原ブーちゃん先生と宇野ゴンとの出会いが故宇野ゴンの東京教育大学進学となり、私と宇野ゴンとの一生の絆を結び付けることとなるのである。県立浦和高校監督時代のサッカー部員たち、そして広大附属高校監督時代のサッカー部員たちのほとんどといってもよいくらいの人々が福原ブーちゃん先生になんらかの感化を受けている。

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 「サッカーで哲学しろ!」私たち高校生に向かって真剣に迫ってきていた。いま数えるとブーちゃん先生は私が最初に出会ったときは26歳、宇野ゴンが出会ったときは29歳であったはずだ。それから8年後ブーちゃん先生は第二次被爆(原爆投下時長兄が広島市内で亡くなり翌日遺体探しに広島市内に入り被爆)が原因で胃がんを発症し38歳で亡くなっている。ブーちゃん先生の東京教育大学時代の同級生故小宮喜久先輩(東京教育大学蹴球部元監督、順天堂大学サッカー部元監督・部長、元JFA理事)の話ではいつもスポーツバッグの中にリトログリセリンを持っていて何かあった時はそれを使うように頼まれていたそうである。ブーちゃん先生は原爆、原子力この方面への関心は人一倍ナーバスであった。原爆および原子力は命にかけても阻止するくらいの覚悟は持っていたようだ。この原子力に関して私は大きな板挟みになったことがある。これについては今回はこのあたりでとどめよう。何はともあれ人の出逢いは不思議なものである。故宇野勝氏と私はその後6畳一間で1年間同居生活をし、1971年には西ドイツに先に行っていたゴンを頼りに私はサッカー留学し、その後20年間近く日本サッカー協会指導者養成を2人が中心で担当し、大学サッカーに共に携わってきた。もし私たち2人が少しでも日本のサッカー発展の役に立ってきたがあるのであれば故福原黎三ことブーちゃん先生との出逢いと感化の力無くしてこの大役は果たせなまったと言い切ることができる。

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